2014年2月23日日曜日

なぜ日本は生きづらいのか--「商売」と「ビジネス」の違い

なぜ日本は生きづらいのか--「商売」と「ビジネス」の違い

http://japan.zdnet.com/cio/sp_13workshift/35037736/

日本書記に見られる日本人の労働観

日本人にとっての労働観とは「生き甲斐」
聖書の世界観では「労働」とは「神」の忠告に従わなかった人への「罰」であり、義務

日本人のDNAと、欧米式価値観の板ばさみ

日本人としてDNAに刻まれたこれらの労働観、宗教観、仕事や利益に対する考え方。現代社会で触れる欧米式の労働観、宗教観、仕事や利益に対する考え方。現代社会に生きる日本人はこの2つの価値観の中で生きることを迫られ、徐々にこの乖離が大きくなっているのではないだろうか。

地域とともに生きる中小企業が「日本人らしくありたい人を救う」

グローバル経済で勝ち抜きたい日本人は大企業に就職し世界と戦い、「昔の日本人のように生きたい」と考える人は、中小企業に就職し地域社会と人の縁で生きる。




ワークシフトに脅える日本版プレッパー

 この「プレッパーズ」を見ていて「ワークシフト」や「漠然とした将来の不安」を感じて暮らす人たちは、日本版プレッパーズではないかと感じるのだ。
 10~20年先のグローバル経済化した未来を想像し、大企業が赤字決算を出せば「日本が崩壊する」と言い、どこかの企業がリストラを発表すれば「雇用が危ない」と叫ぶ。すでに日本を飛び出し、セブやフィリピンなどの物価の安い国での生活を始めている人たちもいる。
 しかし、20年後の未来ならいざしらず、「今」の日本は世界でも高い賃金報酬(※1)と、低い失業率(※2)、職業選択の自由もあり、衛生面も整っている。日本をうらやましいと思う諸外国は無数にあるだろう。ほんの70年ほどさかのぼれば世界は戦争に明け暮れていた。今の日本ほど平和で衣食住に満ち足りた国は人類の有史の中でも数少ない部類に入るだろう。
 にもかかわらず、未来を悲観し、生きることに悩み、自ら命を絶つ人が後をたたない。確かに年金問題や少子高齢化、将来確実に迫る税負担を考えれば頭が痛くなる。多くの人はこれを「閉塞感」と表現する。日本人が「生きづらい理由」、本当に理由はそれだけだろうか。私には何か違う他の理由があるように思うのだ。
 ※1 UBSの『Prices and Earnings』のレポートによると、2012年の世界主要72都市の平均年収1位はスイス・チューリッヒ(533万円)。東京は376万円で8位
 ※2 日本の完全失業率は3.9%。米国は7.6%。2020年オリンピック開催を競ったスペインの失業率は26.9%

日本書記に見られる日本人の労働観

 本連載を始めるにあたって、歴史に興味を持つようになった。日本人らしい働き方とは何かを考えていると、そもそも「日本人らしい」とは何なのかが知りたくなったからだ。
日本書記に見られる労働観
 そこで日本の歴史書とされる「日本書紀」に関する文献を読んでいると、日本人の労働観についてハッとさせられるものがあった。
 まず、日本書紀の世界観では食べ物は保食神(うけもちのかみ)が「生んでいた」。口から食材を吐き出すのだが、ある時、保食神を訪ねた月読尊(つくよみ)が、口から出された食材を見て侮辱されたと誤解し、保食神を斬り殺してしまう。この時、保食神の遺体から稲・麦・粟・稗・豆といった五穀の種が生まれ出た。
 天界を収める天照大御神は、この五穀のうち粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。
 人間が生きるために必要な「食材」は神が作り出す神聖なもの。そこから生まれた種を植える田畑を神自らが保有している。歴史学者たちは日本書紀や古事記に見られる日本人の労働観は、労働は神様ですら行う行為であり、神様とともに働けることは人間にとって喜びであった、と解説する。日本人にとっての労働観とは「生き甲斐」なのである。
聖書に見られる労働観
 では、欧米的な労働観とは何かと思い、聖書の中に労働に関する記述があるかを調べてみた。
 聖書の創世記第3章、アダムとイヴの物語に人がなぜ「働く」ようになったのかが書かれている。アダムとイヴは神から「林檎」を食べてはならないと忠告されるが、ヘビにだまされたイヴが林檎を取り、二人で食べてしまう。すると「知恵」を身につけ羞恥心を覚える。これを知った神は忠告を破った二人に「罰」として、大地を呪い人は一生苦しみながら食物を取る義務を課せられた。  
 聖書の世界観では「労働」とは「神」の忠告に従わなかった人への「罰」であり、義務なのだ。

ビジネスと商売

 英語では仕事のことを「ビジネス」と表現する。日本語でこれに近い単語は「商売」だろうか。この二つを辞書で調べてみると以下のような記載がある。
  • ビジネス=個人的な感情を交えずに利益の追求のみを目的として進める仕事
  • 商売=商品を仕入れて売ること。課せられている任務。職業。専門の仕事
 ビジネスにはわざわざ「個人的な感情を交えず」と付与されており、冷徹な印象を受ける。反対に商売は必ずしも「利益」を追求しなければならないというよりは、任務であるとしている。
 日本の三大商人と呼ばれる「近江商人」の哲学には「利真於勤(利は勤むるにおいて真なり)」という考え方がある。これは、利益はその任務に懸命に努力した結果に対する「おこぼれ」に過ぎないという考え方であり、営利至上主義に対するいさめなのだ。
 個人的な感情を交えずに利益の追求のみを目的として進める「ビジネス」。課せられた任務をこなし、そこから「適切なおこぼれ」を貰う「商売」。
 日本人にとって働くことは「生き甲斐」だったのだから、必ずしも「労働」の目的は利潤の追求ではなかった。しかし、働くことが「罰」である欧米的労働観では、労働から解放されるために必死で「利益」を追求しようとする。そんな違いがあるのではないだろうか。

日本人の信仰のルーツとも言われる「神道」とは

 多くの日本人は「自分は無宗教」だと考えているのではないだろうか。恥ずかしながら、筆者も本連載で日本の歴史に興味を持ち「神道」と呼ばれる、日本最古の宗教があることを知った。正確に言えば神道は宗教ではなく、縄文時代から自然ともに生きる人々の間から自然と生まれた神観念であり、戒律や教祖といったものは存在しない。神社本庁に神道についての解説があるので紹介したい。
 神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁撈などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました。
  前述した日本書紀にはさまざまな神が現れるが、神がくしゃみをしたり、顔を洗ったりするたびに新たな神が生まれることもあれば、土地が生まれることもある。つまり自然界に存在するあらゆるものに神が宿る。さらに、神は1人ではなく、「八百万の神」が存在するというのが、古代日本人の神観念なのである。
 神社本庁の神道の理念にはこうある。
 神道のもつ理念には、古代から培われてきた日本人の叡智や価値観が生きています。それは、鎮守の森に代表される自然を守り、自然と人間とがともに生きてゆくこと、祭りを通じて地域社会の和を保ち、一体感を高めてゆくこと、子孫の繁栄を願い、家庭から地域、さらには皇室をいただく日本という国の限りない発展を祈ることなどです。
  1万年以上前、縄文時代から私たちの祖先は、海に囲まれた自然豊かな土地に生き、自然と調和しながら生きることを「生きる道」だと考えた。そして、自然から採れる食物が神が与えた神聖なものだと考えたとしたならば、それをむやみに「収穫」しようとは思わなかっただろう。それに必要以上に収穫しすぎてしまえば土壌は枯れ、魚介類は死滅してしまう。ここにも「儲けすぎない」という商売人の考えに通じるものがあったのではないだろうか。

日本人のDNAと、欧米式価値観の板ばさみ

 働くことを「生き甲斐」と感じる労働観。儲けすぎることを追求しない利益に対する考え方。自然とともに生きてきた宗教観。
 日本人としてDNAに刻まれたこれらの労働観、宗教観、仕事や利益に対する考え方。現代社会で触れる欧米式の労働観、宗教観、仕事や利益に対する考え方。現代社会に生きる日本人はこの2つの価値観の中で生きることを迫られ、徐々にこの乖離が大きくなっているのではないだろうか。

地域とともに生きる中小企業が「日本人らしくありたい人を救う」

 「日本人らしさ」との乖離が「現代日本人の生きづらさ」だとすれば、グローバル化の進む世界では、その生きづらさは増すばかりだ。
 そこで、筆者はこう考える。グローバル経済で勝ち抜きたい日本人は大企業に就職し世界と戦い、「昔の日本人のように生きたい」と考える人は、中小企業に就職し地域社会と人の縁で生きる。このようにすれば、生き甲斐やワークライフバランスを考える優秀な学生を中小企業は誘致することができるようになるのではないか。
 グローバル経済の中ですべての人が厳しい競争社会で生き抜かなければならないという強迫観念が、本来の日本人的価値観を失わせ、「生きづらさ」を助長してしまっているのではないだろうか。
 「生き方」の選択ができる社会作り。それが、これからの日本社会に必要なのだ。







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